最初はただ、面白いとしか思っていなかった。目の前の男は、珈琲の揺れるカップを見つめながら、そう私に話した。
その日は、雨が酷かった。この季節柄相応しい台風或いはゲリラ豪雨。人間が予想出来ない、予想しても何も出来ないそれらのしでかす雨に、私は鞄を盾にする事も出来ずに走っていた。革靴に薄汚れた水たまりの水が乗っかり、荷物を濡らしてはいけないと丸めた背は、まるで着衣したまま風呂に入ったようだ。
ざんざんと激しい音と共に私を叩く雨に、私は音を上げた。丁度近くに、喫茶店の看板がある。「Bulecats」と書かれたその看板を目にした私は、四の五の言ってられないとそこのドアを開けた。
「いらっしゃい」
雨の音が消え、静寂の流れるその空間に私は佇んでいた。嗚呼、お客さん、風邪引きますよ。この喫茶店のマスターと思わしき男性が、タオルを片手に私に近づいた。どこか哀愁のあるその男性からタオルを受け取り一礼する。
「すみません、こんな格好で・・・・・・」
「大丈夫ですよ。さぁ、とりあえず腰掛けてください。今、温かい珈琲を出しましょう」
何となく、この男性には敬語が似合わないと思った。客にもタメ口で話し、だからこそ人気があるマスター。そんな雰囲気が、彼にはあった。その旨を伝えれば、男性は笑って「確かに、敬語は得意ではないかもしれない」と頬を掻いていた。
「その姿を見る限り、きっとお仕事の帰りなんでしょう。しかも、鞄を大事そうに抱えていた。出版社にでもお勤めで?」
どうも、違う。私は首を傾げた。この男性の全ての挙動が、彼に会わないのだ。まるで、薬を飲んで可笑しくなってしまったような印象さえ感じる。
「まぁ、そんな感じですかね。フリーライターをやってます」
「フリーライター。随分とかっこいい職業だ」
男性はクスクスと微笑んで、自分も椅子に座った。カウンター越しに見えた瞳は赤く、少しだがくまが見てとれた。
「そうでもないですよ。事実、稼ぎもそう多くない。今日も、同性愛だなんて難しい題材を吹っかけられたところで」
同性愛。その言葉に、男性はどこか過剰に反応した。珈琲を一口飲んで、男性は私を見つめる。
「・・・・・・貴方は、同性愛についてどうお思いで」
「否定はしませんね。職業柄、様々な立場の方と話しますから、少し性愛の対象が違ったとて驚かなくなりました」
「それは、好都合」
カチャン、と珈琲のカップが置かれる。男性は私の顔をジィッと見つめ、言った。
「身の上話を、聞いてほしい」
別に俺は、幼い頃から同性愛者だった訳ではない。ただ、少し複雑な家庭状況だったもので、色恋沙汰に落ちる余裕がなかったのも事実だった。
成人して幾ばく経った頃、この土地を借りて喫茶店を作った。Bulecats。友人は等しくこれを青い猫と思っていたが、本当は黒猫の意をしている。ヨーロッパでは不吉とされてきた、黒猫。ロシアンブルー、ボンベイ。神秘的と評されたりもする彼らを店名にした事に、深い意味はなかった。それから暫く経った頃、世の中にLBXが発表された。それは子ども達から大人まで爆発的な人気を誇り、今じゃもう、海外にだって進出してる。そう、その頃だった。彼、そうだな、ここではBとしよう。彼と会ったのはその頃で、今日みたいに雨が酷い日だった。
Bはとにかく、LBXを愛していた。それは彼の家庭環境も影響していたのかもしれない。何せ、彼、Bの父親がLBXの開発にとても影響していたから。その息子となればまぁ、好きにならない理由はないかもしれない。
彼は誰に対しても友好的で、俺に対しても友好的だった。俺もその頃LBXを弄る事にハマっていて、この辺りでは「伝説のLBXプレイヤー」なんて二つ名を貰うぐらいだった。この二つ名も相まって、俺とBはすぐに仲良くなった。俺はあまり子どもは好きではないから、14の彼に対しても最初はあまり友好的にはなれなかった。しかし、彼の純粋なLBXを愛する心に、次第に俺は馬鹿馬鹿しくなってきた。何がと言えば、全てにだ。大人になって、何かを諦め、憎み、心を閉ざす事。全てだ。
嗚呼、俺たちが仲良くなるのに時間はかからなかった。俺たちは毎日ここで色々な事を話した。そして俺は、彼に恋愛感情を抱くようになった。可笑しいと思うかも知れない。でも、事実だった。会えば胸は高鳴り、会えなくなれば寂しきに溺れ、彼の口が違う誰かの名前を紡ぐ度に嫉妬が俺を焼いた。
自分でも異常だと思った。それでも、この炎は消えない。あの健康的な肌、純真な心、まっすぐな瞳、ふわりと揺れる髪、「レックス」俺の名前を紡ぐ口、確かに未来へ向かう足、希望しか知らないような声、全てが、全てが俺に無いもので、全てが俺の欲しいものだった。
しかし、許される恋ではないとも理解していた。日本は、アジアは同性愛に対して肯定的ではない。しかも、彼が俺の想いに応えてくれるとも思えない。苦しい日々だった。恋慕の情を隠しながら毎日を過ごすのは。
そんなある日、Bは俺に言った。「レックスは、同性愛ってどう思う?」その時ばかりは、まるで神の前に跪き震える羊のようだった。嗚呼、この思いはもう秘めておこうと思っていたのに、何故神はこうやって俺たちを弄ぶのか。神は、俺が平穏である事を許さなかった。震える声で「どうしてだ?」と問えば、Bは頬を赤らめて俺に言う。「レックスの事が――」俄には信じられなかった。当たり前だ。ずっと想っていた彼が、俺の事を、愛しているという。こんな幸福が、あっていいものか。
その後は、穏やかな交際が続いた。表沙汰には出来ない交際だったけれども、幸せだった。そのはず、だったのに。
やはり、神はエゴイストだった。ある日、Bが急に泣き出したんだ。「どうして、俺たちの関係は許されたものではないの」俺は青ざめた。年齢差、性別、立場。全てが駄目だったのだ。この世界では。もしこの関係が暴かれてみよう。『ホモの許されぬ禁断の愛』『中学生を襲った変態男』どう言われるかなんて、想像しなくても分かる。
そう、世界に対し俺たちはあまりにも無力だった。俺たちに居場所はない。だから、俺たちは遠くへ行こうと決めた。誰もいない、誰も俺たちの邪魔をしない遠くへ。
カラン、とドアが開く。私はその音につられ後ろを見遣った。そこには年端のいかない少年が傘も持たずに立っていた。「バン」男性は嬉しそうに呟く。きっと、彼がBなのだろう。男性はカウンターから出ると、車のキーを持って私の横を通り過ぎる。「申し訳ない。閉店です」その傘を使ってください。男性が指さした場所には紺の傘が1つ立てられていた。ありがとうございます、とお礼を言おうと立ち上がる。しかし、ドアにもう彼らの姿はなかった。その事に、私は驚かなかった。きっと彼らは、どこかで死ぬのだろう。言ってしまえば、心中だ。しかし、私に彼らを止める資格はない。彼らと私の間には確固たる溝があったし、私は正直、同性愛が苦手でもあった。理解が出来ないのだ。立ち上がればいいのに、そこで死という選択をしてしまう彼らは結局のところ、弱いのだろう。
あまり、長くは留まれない。私も立ち上がり、傘を手に取って店を出る。雨はより一層酷くなり、もう彼らの姿も見あたらない。きっと私は、彼らの事を一生忘れられない。死と言う選択をした彼らの弱さ、愚かさ、そしてあの美しさの断片を感じてしまった以上、私も彼らと同じなのかもしれない。
雨の道を歩く。雨雲は黒く、光はどこにもなかった。
とある喫茶店での独自
(あまりに寂しく、孤独な、)
その日は、雨が酷かった。この季節柄相応しい台風或いはゲリラ豪雨。人間が予想出来ない、予想しても何も出来ないそれらのしでかす雨に、私は鞄を盾にする事も出来ずに走っていた。革靴に薄汚れた水たまりの水が乗っかり、荷物を濡らしてはいけないと丸めた背は、まるで着衣したまま風呂に入ったようだ。
ざんざんと激しい音と共に私を叩く雨に、私は音を上げた。丁度近くに、喫茶店の看板がある。「Bulecats」と書かれたその看板を目にした私は、四の五の言ってられないとそこのドアを開けた。
「いらっしゃい」
雨の音が消え、静寂の流れるその空間に私は佇んでいた。嗚呼、お客さん、風邪引きますよ。この喫茶店のマスターと思わしき男性が、タオルを片手に私に近づいた。どこか哀愁のあるその男性からタオルを受け取り一礼する。
「すみません、こんな格好で・・・・・・」
「大丈夫ですよ。さぁ、とりあえず腰掛けてください。今、温かい珈琲を出しましょう」
何となく、この男性には敬語が似合わないと思った。客にもタメ口で話し、だからこそ人気があるマスター。そんな雰囲気が、彼にはあった。その旨を伝えれば、男性は笑って「確かに、敬語は得意ではないかもしれない」と頬を掻いていた。
「その姿を見る限り、きっとお仕事の帰りなんでしょう。しかも、鞄を大事そうに抱えていた。出版社にでもお勤めで?」
どうも、違う。私は首を傾げた。この男性の全ての挙動が、彼に会わないのだ。まるで、薬を飲んで可笑しくなってしまったような印象さえ感じる。
「まぁ、そんな感じですかね。フリーライターをやってます」
「フリーライター。随分とかっこいい職業だ」
男性はクスクスと微笑んで、自分も椅子に座った。カウンター越しに見えた瞳は赤く、少しだがくまが見てとれた。
「そうでもないですよ。事実、稼ぎもそう多くない。今日も、同性愛だなんて難しい題材を吹っかけられたところで」
同性愛。その言葉に、男性はどこか過剰に反応した。珈琲を一口飲んで、男性は私を見つめる。
「・・・・・・貴方は、同性愛についてどうお思いで」
「否定はしませんね。職業柄、様々な立場の方と話しますから、少し性愛の対象が違ったとて驚かなくなりました」
「それは、好都合」
カチャン、と珈琲のカップが置かれる。男性は私の顔をジィッと見つめ、言った。
「身の上話を、聞いてほしい」
別に俺は、幼い頃から同性愛者だった訳ではない。ただ、少し複雑な家庭状況だったもので、色恋沙汰に落ちる余裕がなかったのも事実だった。
成人して幾ばく経った頃、この土地を借りて喫茶店を作った。Bulecats。友人は等しくこれを青い猫と思っていたが、本当は黒猫の意をしている。ヨーロッパでは不吉とされてきた、黒猫。ロシアンブルー、ボンベイ。神秘的と評されたりもする彼らを店名にした事に、深い意味はなかった。それから暫く経った頃、世の中にLBXが発表された。それは子ども達から大人まで爆発的な人気を誇り、今じゃもう、海外にだって進出してる。そう、その頃だった。彼、そうだな、ここではBとしよう。彼と会ったのはその頃で、今日みたいに雨が酷い日だった。
Bはとにかく、LBXを愛していた。それは彼の家庭環境も影響していたのかもしれない。何せ、彼、Bの父親がLBXの開発にとても影響していたから。その息子となればまぁ、好きにならない理由はないかもしれない。
彼は誰に対しても友好的で、俺に対しても友好的だった。俺もその頃LBXを弄る事にハマっていて、この辺りでは「伝説のLBXプレイヤー」なんて二つ名を貰うぐらいだった。この二つ名も相まって、俺とBはすぐに仲良くなった。俺はあまり子どもは好きではないから、14の彼に対しても最初はあまり友好的にはなれなかった。しかし、彼の純粋なLBXを愛する心に、次第に俺は馬鹿馬鹿しくなってきた。何がと言えば、全てにだ。大人になって、何かを諦め、憎み、心を閉ざす事。全てだ。
嗚呼、俺たちが仲良くなるのに時間はかからなかった。俺たちは毎日ここで色々な事を話した。そして俺は、彼に恋愛感情を抱くようになった。可笑しいと思うかも知れない。でも、事実だった。会えば胸は高鳴り、会えなくなれば寂しきに溺れ、彼の口が違う誰かの名前を紡ぐ度に嫉妬が俺を焼いた。
自分でも異常だと思った。それでも、この炎は消えない。あの健康的な肌、純真な心、まっすぐな瞳、ふわりと揺れる髪、「レックス」俺の名前を紡ぐ口、確かに未来へ向かう足、希望しか知らないような声、全てが、全てが俺に無いもので、全てが俺の欲しいものだった。
しかし、許される恋ではないとも理解していた。日本は、アジアは同性愛に対して肯定的ではない。しかも、彼が俺の想いに応えてくれるとも思えない。苦しい日々だった。恋慕の情を隠しながら毎日を過ごすのは。
そんなある日、Bは俺に言った。「レックスは、同性愛ってどう思う?」その時ばかりは、まるで神の前に跪き震える羊のようだった。嗚呼、この思いはもう秘めておこうと思っていたのに、何故神はこうやって俺たちを弄ぶのか。神は、俺が平穏である事を許さなかった。震える声で「どうしてだ?」と問えば、Bは頬を赤らめて俺に言う。「レックスの事が――」俄には信じられなかった。当たり前だ。ずっと想っていた彼が、俺の事を、愛しているという。こんな幸福が、あっていいものか。
その後は、穏やかな交際が続いた。表沙汰には出来ない交際だったけれども、幸せだった。そのはず、だったのに。
やはり、神はエゴイストだった。ある日、Bが急に泣き出したんだ。「どうして、俺たちの関係は許されたものではないの」俺は青ざめた。年齢差、性別、立場。全てが駄目だったのだ。この世界では。もしこの関係が暴かれてみよう。『ホモの許されぬ禁断の愛』『中学生を襲った変態男』どう言われるかなんて、想像しなくても分かる。
そう、世界に対し俺たちはあまりにも無力だった。俺たちに居場所はない。だから、俺たちは遠くへ行こうと決めた。誰もいない、誰も俺たちの邪魔をしない遠くへ。
カラン、とドアが開く。私はその音につられ後ろを見遣った。そこには年端のいかない少年が傘も持たずに立っていた。「バン」男性は嬉しそうに呟く。きっと、彼がBなのだろう。男性はカウンターから出ると、車のキーを持って私の横を通り過ぎる。「申し訳ない。閉店です」その傘を使ってください。男性が指さした場所には紺の傘が1つ立てられていた。ありがとうございます、とお礼を言おうと立ち上がる。しかし、ドアにもう彼らの姿はなかった。その事に、私は驚かなかった。きっと彼らは、どこかで死ぬのだろう。言ってしまえば、心中だ。しかし、私に彼らを止める資格はない。彼らと私の間には確固たる溝があったし、私は正直、同性愛が苦手でもあった。理解が出来ないのだ。立ち上がればいいのに、そこで死という選択をしてしまう彼らは結局のところ、弱いのだろう。
あまり、長くは留まれない。私も立ち上がり、傘を手に取って店を出る。雨はより一層酷くなり、もう彼らの姿も見あたらない。きっと私は、彼らの事を一生忘れられない。死と言う選択をした彼らの弱さ、愚かさ、そしてあの美しさの断片を感じてしまった以上、私も彼らと同じなのかもしれない。
雨の道を歩く。雨雲は黒く、光はどこにもなかった。
とある喫茶店での独自
(あまりに寂しく、孤独な、)
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